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思いついたときにただ色々書いています

折れ線模様


 少し伸びた爪たちが思いきり真上に沿ったせいで、彼女は痛っと声をあげた。 「みて、これ。模様みたい」 爪に入った谷折りの折れ線。わたしはそれをよく見るために、その手を自分の方に引き寄せて、両手で折れ線をなぞりあげた。
「かわいい」
「え?」
「なんか、これかわいいね」
「爪が?なんの手入れもしてないのに?」
「うん。爪もかわいいけど、この線がかわいい」

 そう言いながら懲りずに爪を触るから「変なの」と笑われ、彼女の手はわたしの手から解けていった。そうしてその手でハンドルを握る。まだ爪には折れ線がくっきりとあって、そこに痛みがひりひりと存在するのだと思うと、なんだかもっと愛おしかった。目的地まで消えないでねと、 心の中で思う。思ったあと、目線を彼女の手があったわたしの手に移す。爪には秋口の夕空色、 深い青色が塗られていて、折れ線の模様なんてなかった。

 向かう先は、当日に決めた。前日の電話では目的地を決めるどころか、普段する他愛もない話 だけで二時間が経っていた。ワイヤレスイヤホンから聞こえてくる彼女の声と、キュキュという椅子が軋む音、少しのラグによる会話のズレが、明日がくることをもどかしくさせた。

「明日は結局どこに行きたいんだっけ?」

「うーん、天気がよければ温泉とか行きたかったけど、雨予報なんだよね。わたし生粋の雨女だから。申し訳ないけど」
「わたしも別に天気に恵まれるタイプではないから、一緒だね」

「そんなふたりが遠出しようなんて、天気は絶対に雨だね」
「でも、きっと楽しいよ」

 彼女はあくび混じりで最後のセリフを言った。それを指摘すると、やがて普段どのくらいの睡眠をとって、どんな生活を送り、何を食べているのかという話になった。そうして、誰を想って過ごしているかとか、その人を振り向かせるにはどうするべきかとか、恋の話になった。わたしは その恋の話を聞くのがつまらなくなって、片方のイヤホンをカーペットの敷かれた床に投げ、イヤホンのない耳を枕元につけて、彼女と過ごす明日のことを想った。

 行こうと決めた目的地までの道、彼女の車では、今流行の曲たちが流れた。それに心地よさを感じていたが、耳に入ってくる歌詞に共通性はなかった。そして国境もなかった。英語、韓国語たちの、翻訳できない、理解できない言葉たちに救われた。今ここで、<大切なのは明るい明日だ>とか<誰かを好きになることを否定して埋めてしまったよ>などと歌われたら、封じ込めているものたちが溢れて、溢れて、彼女が隣にいるから余計に溢れて、ひとり歯を食いしばっていなければならなかった。ラブソングに高揚と緊張と、そして叶わぬ恋の悲しみを叩き起こされて、 爪の色がもっと深い青になってしまうのを、<네 맘은 네 거 맞으니까>が抑えた。

 前を走る車のナンバー、9.11。テロ。今日の日付。「今日の日付だね」「この車に乗る人にとっては、大切な日なんだろうか」「同時多発テロのことをやけに調べたことがあってさ」、次は彼女になんて話しかけようか、そればかりを考える。横から見る彼女の目元は、マットなオレンジ色に上乗せされたラメが光って、眩い。わたしの爪の色とは反対に、暖かくて、この雨雲の上にあるであろう日の光のようだった。浮かべた話題たちを口に出そうとすると、彼女はまた、恋の話を始めた。彼女の爪には折れ線はもうなく、わたしの爪の色は、もっと深い青色になった。

 

[実在しないお話 - フィクション]

 

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