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思いついたときにただ色々書いています

正解のない音楽の象徴

 高校時代に所属していた吹奏楽部は、県内で5本指に入るほどの実力を持つ強豪部活だった。
「高校時代の思い出は?」と聞かれたら「吹奏楽部です」と即答できるほど、毎日が音楽三昧だった。シャープペンシルより、楽器を持っていた時間の方が圧倒的に多い。先輩は怖かったし、後輩は大勢いて、いつも誰かの楽器の音が聴こえた。

 そして先生は、音楽を具現化したような人だった。

 普段は物静かで口数は少なく、何を考えているのかわからない。先生に対する正解がわからない。だから近づくのが怖くて、先生がいる部屋に入るだけで、緊張で手足が震えた。人づてに「先生が呼んでいた」などと聞けば「自分は一体何をしてしまったのか」と、記憶の隅から隅までを辿ることになった。ドアをノックして、一礼し、先生の目を見る。あまり眠れていないのかとお節介を焼きたくなるほど真赤な目を見つめて、唾をゴクリと飲む。結果としてそれが頼み事であったり、何かの打ち合わせだったりと、”怒るために呼ばれたわけではない”ことがわかっても、先生と対面して話すことには、独特の緊張感があった。単にローテンション/オープンではない性格だった、ということだけでなく、当時の私たちにとって先生は、ドアを開いたそのまたドアの向こうにいる、遠い遠い存在だったのだ。

 先生が指揮台に立って、楽器を構える合図をした瞬間から、私たちは先生が降ろした膜のようなものの中に取り込まれた。音楽が鳴りだすと、先生と自分、先生と音との、1対1の会話のようなものが始まる。楽譜に書いてある音楽記号を読まずとも、次にやればいいことが理解できる。これが何にも変え難い感覚なんだ。決して失敗してはならない緊張感と、それを表せたときの心地の良さ。今の私たちにはもうこれが経験ができないと思うと「もっとあの瞬間を大事にすればよかった」と、つい悔やんでしまう。

 だから、練習がきつくても、人間関係が最悪な時でも、自分が嫌いでも、毎日あの部屋に足を踏み入れていたのだと思う。

 

 そんな先生が今年の春、十数年の時を経て、別の場所に移ることになった。
 今日、同期で母校を訪れ、先生にお別れの挨拶をしに行った。先生は私たちに、現役の部員たちに向かって自己紹介を勧めると、全員の前で話を始めた。

 「君たちは懐かしい代だね。そういえば先日現役の部員から『この十数年の中で、1番印象に残っている演奏は?』という質問をされました。真っ先に、君たちが最後のコンクールで演奏した<カヴァレリア・ルスティカーナ>を思い出した」。私たちの代は、”これで金賞を取らなければ引退”というコンクールで、この歌劇を演奏した。失敗が許されない本番。音が鳴り出してすぐ、ソロを任された同期がたった1音を外してしまうというハプニングが起きた。幸い、すぐに立て直したのだけど、舞台上の全員が「もうだめだ」と思ったのと同時に「それでもまだ、先生との音楽を終わりにしたくない」という気持ちが溢れ出し、審査員に「音楽は気持ちだ。あんなに心打たれる演奏を聴いたことがない」と言わせてみせた、そんな演奏。結果は金賞ではなくて、私たちは散ってしまうことになるのだけど、その後ずっと、ずっとずっと、先生が降ろした膜から出られずに、しばらく「あれ以上の演奏はできない」と、自画自賛していたものだった。

 それが、何百曲、何千曲(もっとかもしれない)の指揮を振り、何百人、何千人(同じくもっとかもしれない)の指導をしていた先生にとって、1番印象に残っている演奏…。 これだけで、練習がきつくても、人間関係が最悪な時でも、自分が嫌いで、楽器が嫌いな時でも「やめる」という選択をしなくてよかったと、心の底から思う。

 

 「君たちが1番記憶に残っている思い出は?」という先生からの質問には「とあるコンサートのリハーサルです」と、我々の代の部長が真っ先に返答した。(あまり具体的には記載できないが)とある挑発的な講師に、私たちの同期が反発したという出来事。それも他校の生徒を交えた100人近い人が集まる中で。「そんなことあったね~!よく覚えているよ」と、先生はケラケラと笑った。その後私たちはこてんぱんに怒られることになり、部長は「謝りに行かせられた」と不服そうに嘆いたが、「でもね」と先生は笑うのをやめて話し始めた。「でもね、当時はこんなこと言えないし、今も秘密だけど(ごめん先生!やんわり書いているから許して!)、ああやって反発したい気持ちもよくわかるんだよ。だってそれくらい、部員を挑発する指導だったと思うから。でもね、こうして先生をしているからわかることなんだけど、残念なことにやっぱりああいう講師は多い。恐怖で支配して、技術を向上させるー、大きい音を立てたり、そんな下手なら死んじゃえって言ったり。今でも強豪校ではそんな指導が主流だったりするからね」

 先生、そうだったんですか。当時そんな風に思っていたんですか。じゃあなんでそれを言ってくれなかったんですか。と、私はやや複雑な気持ちで先生の話を聞いていた。先生は、そうやって恐怖で支配して、技術を向上させるやり方は嫌だったのか。でも当時の私たちにとって、先生は怖くて接し難く、雲の上のような存在だった(※大きい音は立てないし、死ねなんて聞いたことないけど!)。なんとも矛盾している気がして「でも当時は怖かったですよ」と言いたかったが、先生は「ま、当時はみんなにとって怖い存在だったかもしれないけどね」と、軽く足踏みするように付け足した。

 

 「たとえ怖い存在だったとしても、決してそういう指導はしたくなかった」と先生は改めて言った。
 「だから自分はこの十数年間を、”実験のような日々だった”と思っているんですよね。恐怖で支配する先生はたくさんいる。でも、それ以外の方法で、どうにか結果を残すことはできないだろうかとずーっと考えていた」

 元編集者として「この十数年間をひと言で例えると?」と聞きたいところだったが、先生がそのアンサーを自分から話してくれると、元編集者として「この話をなんとか書き起こしておきたい」と思わずにはいられず、ここでこのルポを書くことが決まる。

 何かを考えるように少し間を置いて、先生は続きを話し始めた。「まあ、先日のとある大会で結果を残せていない時点で、その実験は失敗ということになるんだけど。やっぱり、その指導方法が結果を残せないかと言われたら、そうじゃないんだ。みんなが素直に厳しい指導を受け止めて、なんとかそれに応えようとするから、金賞・全国大会出場と、結果を残すことができてしまう…」

 「でも」、(こう思うと、先生は「でも」が多い)「でも自分は、どんなに結果が残せる指導方法だとわかっていても、そういう方法で音楽をしたいとは1つも思わないんですよ。結果も大事だけど、自分は恐怖でみんなを支配しながら、音楽はしたくなかった」

 散々先生のことを「怖い」と言っていたけど、ここでそれを訂正する。先生はずっと怒っていたわけではなくて、単純にいつもローテンションで、オープンではない性格だっただけ、なんだ。そして先生は今よりももっとカリカリとしていて、私たちは怒られるようなことを多くしていただけ、なんだと思う。本当にそれだけなんだ。先生を恐怖の象徴には思えなかったのも、今思えば納得する。先生はずっと、正解のない音楽の象徴だった。

 

 最後に先生は「やっぱり楽しかった」と、改めてそう言った。
 あまりにも忙しかったけど、楽しかったと。
 「時々お偉い方たちに『先生、働きすぎだから休んでくださいね』と言われることがあったんだけど、俺はそういう時、本当に腹が立ったんだよ。なんでかはわからないんだけどね。多分、性格だね。だから十数年間ずっと走り続けることになったんだろうね」

 先生はまたケラケラと笑って、私たちに「ずっと仲良くね」と言った。
 私たちは帰り道「先生がいる母校にもう来ることはないんだね」と言いながら「またみんなで先生がいる場所に会いに行こう」と言った。

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