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思いついたときにただ色々書いています

ましろ

 

運動会のかけっこ、一等になればもらえた金メダル。メダルの中には四角く折り畳まれた紙が入っていて、その真ん中の部分が向日葵花みたいだと思った。光に反射して壁に虹ができる、きらきらした模様が施された”足が速くなる靴”を、みんながこぞって履いて走るから、結局平均は上がってしまうし、かけっこに”それ”は禁止すればいいのにと思いながら、それでも向日葵花のメダルが欲しくて一生懸命に走った。確かその年のメダルは紙からプラスチックに改良されていて、しかも一等ではなくて全員に与えられたから、またみんなかよと、プラスチックの真ん中の、浮き上がった部分を叩いた。

だから、向日葵花のメダルに似た形をしたビスケットを見つけた時は思わず手に取ってしまったし、それが好みの味だった時は、日々のご褒美として買うことに決めた。 二つで一袋に梱包されていて、一度にばくばく食べるというよりも、小さな楽しみをこつこつと開けていく感覚。だから疲労困憊状態で飯を食らうこともままならず、変なウイルスのせいで生きている実感が湧かなくて、何度も自分の首元に手を置く一日の終わり、そのビスケットが残ってい ることを思い出して、一つだけ、いや二つだけ食べようと意気込んでしまえば、気持ちは先ほどよりもマシになっていたり、いなかったりする。

つまりこれは、走って走って、走って、ようやく手にした金メダル。 「この線と線の間を走るんだよ」と先生が教えてくれた線は真白く、足が速くなる靴と、紺色の短パンをも真白くさせた。あのかけっこには在った、僕たちを誘導してくれる線が、今はないような気がしている。どこを走っていけばいいのか、どこを走ってはいけないのか、よくわからないまま、それでも走っている。

真ん中のチョコレートが素早く溶けてしまって、後に残る奥歯についたビスケットの部分が、舌で撫でれば撫でるほど、ゆっくりと味がする。塩気のあるビスケットで、甘いというよりしょっぱい。甘すぎるチョコレートとの塩梅がちょうどよく、しばらくはこのビスケットを買うことにした。

 

 

 

母に秘密を打ち明けた。秘密は自身の物ではなかったが、家族の問題に関わることだった。それを他人から聞いた時「母にこれを打ち明けることは試練だ」「しばらく様子を見て言うことにしよう」と決め、しばらくが経ったから、打ち明けた。お風呂から上がって、肌を保湿し、髪の毛をドライヤーで乾かすその前に言った。

「絶対にこれを本人に言わないでほしい」

「うん」

「衝動的に怒ったり、怒鳴ったり」

「うん」

「しないでほしい」

「うん」

「あとは私から聞いたことも」

「言わない」

「うん、じゃあ言うね」

食い気味の母の、どんとこい、なんでも受け入れるぞといった構えは、逆に私の恐怖を煽った。秘密を打ち明けることが怖いのではなく、この母と話すのが怖い。それでも髪の毛が生乾きになるのは嫌だったから、素早く言って話を打ち切ろう、と、やれ秘密を打ち明けた。 秘密を打ち明けられた母は驚いて、驚いたけど、一瞬止めた手をまた動かして、「そうか」と言った。そのあとに「やっぱりね」と言って、何かを少し考えたあと、「それを言って、なんでお母さんが怒ると思ったの?」と怒り口調で問いただされる。あー、そこで怒る感じね、と私。「まあ 保険としてね!怒らないでねって言うのは保険だよ!」と必死に弁解している私。なぜ私が怒られているのか。確かに私が母を安直に”すぐに怒る人”、”理由もなくすぐに怒る人”、”とにかくよく怒る人”だと決めつけている部分はあったから、母はそう思われていたことが嫌だったんだろう。

 

「私はね、家族の形はなんでもいいと思うんだ。例えば子供たちがどんな選択をしようと、それは自分たちの人生だからいんじゃないって言うだけだし、誰とどんな風に恋愛しようと結婚しようと、一生独身でも、一生フリーターでも構わない。ずっと実家にいたいんだったらいればいいし、あ、猫はみんなで育てようね、生活費は工面し合おうねってルールだけ設けるかもしれないけど。今にも音信不通になろうが、海外に住むことにしようが、リスキーな夢を追っかけようが、自分たちの人生なんだから。この世のすべてのお母さん、お父さんが、しっかりプランを立てて、子供を大学まで行かせて就職させることを目標としてるわけじゃないよ。家族がいつも一緒に食卓を囲まなきゃいけない、どこかに旅行しなきゃいけない、お父さんの許可が必要、お母さんのことを大切に、なんて、私は思わないよ。あんたたちの自由でいいんだから」

 

物凄いスピードで言葉が羅列されていくのを見た。「すごいよあんたは」と、その文章の感想を心の中で述べて、目の前に横たわる真白の猫を撫でる。この子は我が家に来た頃なかなかトイレを覚えられず、母の布団の上でお漏らしを繰り返した。散々「アホだね〜」「マヌケでかわいいね〜」と手を焼かれている時から、「いちばんアホでいちばんかわいいね」と言い続けた効果が発揮して、今では夜は私の布団で眠るし、朝は鼻を舐めて起こしてくれる。真白のもち。もっちゃん。

「私さ、来年度に大学に行こうと思う」

「うん」

「だから家を出る」

「うん、いいと思うよ」

「うん」

「どこの大学?」

「ほら、今年AO入試受かったけど、行かなかったところ」

「あそこか」

「うん、でも、もっちゃんと離れ離れになるのが嫌だ」

YouTubeにあがってる動画を見ればいいじゃん」「うーん、それとは違うんだよ〜」

こうして真白いもっちゃんを撫でられなくなる日々を想像して、後悔しないように、撫でた。

話が終わって、母は明日YouTubeに投稿する動画の編集を再開した。私は髪の毛を乾かしながら、母の「あんたたちも”私も”自由でいいんだから」という言葉の意味を考える。

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折れ線模様


 少し伸びた爪たちが思いきり真上に沿ったせいで、彼女は痛っと声をあげた。 「みて、これ。模様みたい」 爪に入った谷折りの折れ線。わたしはそれをよく見るために、その手を自分の方に引き寄せて、両手で折れ線をなぞりあげた。
「かわいい」
「え?」
「なんか、これかわいいね」
「爪が?なんの手入れもしてないのに?」
「うん。爪もかわいいけど、この線がかわいい」

 そう言いながら懲りずに爪を触るから「変なの」と笑われ、彼女の手はわたしの手から解けていった。そうしてその手でハンドルを握る。まだ爪には折れ線がくっきりとあって、そこに痛みがひりひりと存在するのだと思うと、なんだかもっと愛おしかった。目的地まで消えないでねと、 心の中で思う。思ったあと、目線を彼女の手があったわたしの手に移す。爪には秋口の夕空色、 深い青色が塗られていて、折れ線の模様なんてなかった。

 向かう先は、当日に決めた。前日の電話では目的地を決めるどころか、普段する他愛もない話 だけで二時間が経っていた。ワイヤレスイヤホンから聞こえてくる彼女の声と、キュキュという椅子が軋む音、少しのラグによる会話のズレが、明日がくることをもどかしくさせた。

「明日は結局どこに行きたいんだっけ?」

「うーん、天気がよければ温泉とか行きたかったけど、雨予報なんだよね。わたし生粋の雨女だから。申し訳ないけど」
「わたしも別に天気に恵まれるタイプではないから、一緒だね」

「そんなふたりが遠出しようなんて、天気は絶対に雨だね」
「でも、きっと楽しいよ」

 彼女はあくび混じりで最後のセリフを言った。それを指摘すると、やがて普段どのくらいの睡眠をとって、どんな生活を送り、何を食べているのかという話になった。そうして、誰を想って過ごしているかとか、その人を振り向かせるにはどうするべきかとか、恋の話になった。わたしは その恋の話を聞くのがつまらなくなって、片方のイヤホンをカーペットの敷かれた床に投げ、イヤホンのない耳を枕元につけて、彼女と過ごす明日のことを想った。

 行こうと決めた目的地までの道、彼女の車では、今流行の曲たちが流れた。それに心地よさを感じていたが、耳に入ってくる歌詞に共通性はなかった。そして国境もなかった。英語、韓国語たちの、翻訳できない、理解できない言葉たちに救われた。今ここで、<大切なのは明るい明日だ>とか<誰かを好きになることを否定して埋めてしまったよ>などと歌われたら、封じ込めているものたちが溢れて、溢れて、彼女が隣にいるから余計に溢れて、ひとり歯を食いしばっていなければならなかった。ラブソングに高揚と緊張と、そして叶わぬ恋の悲しみを叩き起こされて、 爪の色がもっと深い青になってしまうのを、<네 맘은 네 거 맞으니까>が抑えた。

 前を走る車のナンバー、9.11。テロ。今日の日付。「今日の日付だね」「この車に乗る人にとっては、大切な日なんだろうか」「同時多発テロのことをやけに調べたことがあってさ」、次は彼女になんて話しかけようか、そればかりを考える。横から見る彼女の目元は、マットなオレンジ色に上乗せされたラメが光って、眩い。わたしの爪の色とは反対に、暖かくて、この雨雲の上にあるであろう日の光のようだった。浮かべた話題たちを口に出そうとすると、彼女はまた、恋の話を始めた。彼女の爪には折れ線はもうなく、わたしの爪の色は、もっと深い青色になった。

 

[実在しないお話 - フィクション]

 

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エメラルドグリーンの秋風

 一晩中つけていたエアコンを消して窓を開けると、台風接近による秋の風が吹いていた。その風にのって、子供の"鳴き声"が聞こえる。朝から泣いてしまうなんて、いったいどんな悲しみ、怒りがあなたに訪れたのか。一晩中泣き腫らしていた自身に自問自答するよう、思う。新しく買ったレースのカーテンからは依然灼熱の日差しが照りつけ、腫れた目をより重たく、開閉できないものにさせた。

 

 昨晩はずっと、本屋でふと立ち読みした村上春樹の短編小説のことを想った。仕事の休憩時間が迫る中、ふと手にとった彼の短編小説。ちょいとダサめの、エメラルドグリーンの表紙が印象的。迫りくる時間の中、読めるだけ読んだ。そこには何でもないただの男と女の視線やぼやき、でも夢だけはあることが描かれており、その男と女はやがて何でもないセックスをして、行為中に互いの好きな人の名前を呼んでしまうかもしれないと言い合うところまでを読了する。次のページにあった、女が作った詩を読むのは控えた。

 エメラルドグリーンのダサめの表紙だけだったら、手にとって読むなんてこと、しない。金色で彫られた村上春樹の文字があったから、読んだ。読んだのだけど。もしかしたら、エメラルドグリーンの表紙だけでも、あの時の私は立ち止まってこの本を手に取っていたかもしれないとも思った。そのくらい、読んだたったの数ページに描かれていた男と女の、ただの生活に、感動したのである。吸い込まれるようにして手に取ったのには、理由があったのである。

 眠れなくて、読まなかった詩のことを考えていた。女は詩人を目指しており、自作したと思えるほど簡易的な冊子本を一冊、出版(とも呼べないかもしれない)したどまりで、様々なアルバイトをして生計を立てていることが数ページに在った。女が書いた詩を読まなかったのは、そこがきっと"重要"で、この先は有料ですと言われているようだったから(しかし大抵この予想は外れる。小説はもっと重要なことだらけ)。私は必ず買いに来ますと本に言い残して、仕事へと戻った。

 しかしここまで、女が書いた詩にどんな言葉が並んでいるのかが気になって、男がその詩にどんな感情を起こすのかが気になって、男と女のことを、想ってしまうなんて。それは生活を送る男と女に、泣き叫ぶ子供が抱くような憧れや嫉妬心を向けているからだとすぐにわかった。生活を送ることを"する"ように生活を送る世間、そして自身へのマイナスな感情をぶつけた。何処に当てたらいいのかわからないものを、何処かにひたすらに当てていった。

 

 

 

 自分がここまで平気なフリをしていたのだと気づく。行為中にお互いの好きな人の名前を呼びあう(確か男は呼べなかった)、男と女のそれに、なんて悲しい、なんて人間らしいと、体が唸る。平気なフリしているのが馬鹿みたいだ。素直に泣いたらいいよ、苦しいと叫べばいい。鳥のさえずりよりも先に聞こえた子供の"鳴き声"を、優しい秋風がこの日々へとそう運んだ。

 

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麦雨

 

 雨の音と扇風機の回る音が入り混じり、それはもう完全なる「夏」。最近は太陽の光が当たらない梅雨のせいで、暑いというより"蒸し"暑く、気温自体はそこまで上がらないために足が冷えると言いながら、母は眠るとき靴下を履いた。五本指のソックス。指それぞれに違う絵柄が描いてあって、中指の灰色猫が、我が家で飼っている子猫に似ていると笑う。

 可愛がっている外猫は、雨が降る日は出歩かず、我が家の猫たちの様子を見るようにデッキのベンチに横たわる。晴れている日は散歩や狩や、他の家に挨拶周りにでも行っているのだろう、ここ最近はやたらとこの家に来るなあ、なんだか外の世界は自由でよいなあと、内側の猫たちはそんな外猫を羨ましそうに見上げる。猫の世界にもないものねだりがあるなんて。そして猫たちは皆、空から降る雨たちを不思議そうに見上げる。

 


 傘を持って海に行けば、一面灰色の海を、気が済むまで眺めていた。雨音と共に波音を聞いて、やかましいほど水を感じる。決して濡れまいと、がんじがらめに履いた靴下とスニーカーで、やっぱりこうしたいと海に足を突っ込んで、帰り道に最悪だとごねる。途中寄ったサービスエリア。車から降りる人々は傘も差さずに屋根のある方へと走っていた。一服をすませて、人気のないソフトクリーム屋を見つけてしまえば、億劫な帰り道を少しだけ明るくする、バニラとチョコレートが綺麗に交差するソフトクリームを買った。律儀に五百四十円を、財布を濡らしながら探して払う。「またおいでね」と子供に言うみたいに、おばあさんが笑った。もう二度と来ないんだろうなと"さえ"思わなかったサービスエリア、また来てみたいなと思った。

 


 子供の頃、車窓に貼りつく雨粒をずっとなぞっていた。数多の粒たちの行末が気になって、見つめたあと、指でなぞる。すると粒がだんだんと合わさって、大きくなって、車窓の中でも一番大きな雨粒になって、水たまりのようだと思った。「あとどれくらいで着く?」「まだまだだよ」「何時間くらい?」「二時間くらいかな。眠っているといいよ」。運転席の父の声は少し遠い。道路の水たまりにタイヤが擦る独特な音の方が近い。目的地に到着する二時間後、目が覚めたら晴れているといい。車窓の雨粒たちがみんな消えて、光になっていたらいい。そう願いながら目を閉じた。

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猫と若者

 

    やけに背中の、Tシャツのタグが当たるところだけが気になって、くすぐったいから爪でガリガリとかいた。子猫が慣れない手つきで爪を研ぐように、若干届きにくい場所をガリガリとかいた。この自粛期間中はそれがいつもで、そのせいで、鏡にふと背中を向けたとき、そこだけが赤くなり、そこの皮膚だけがすり減っているのを見た。脱皮とは少し違って、その部分だけ、失っているのが怖くなる。だからすぐにTシャツのタグをハサミで切って、”そんなこと”がもう起こらないようにした。
 私は、”何かを失う”のがとても怖い。

 

 「ほんとうに、涙腺が緩くなりました。 十代のあの、泣いたら負けみたいな意地がなくなったのでしょうか、年齢を重ねて大人になっているせいでしょうか、すぐに泣いてしまうようになりました。 涙の種類はいずれも、感動と悲しみによるものが多くて、最近は感動する機会も減りつつあるから、もっぱら悲しくて泣くことの方が多い。しかも、何か悲しいことが”実際に起きた”わけではなく、”いずれ起きる”ことを想像して涙を流すのです。」

 電気もつけずに日記帳を取り出して、色も種類も選ばずに、適当に手にとったボールペンでこう書いた。泣きはらした目を擦ることもせずに、この気持ちを忘れてしまったときのために書いた。私にできるのは、”何かを失う”ことを阻止するのではなく、”そんなこと”がもう起こらないようにするのではなく、”それが起きたとき”の自分がどうであるべきかを考えることだけだ。
 

 

 飼い猫が我が家にやってきた日をずっと覚えていたいのです。 青色のペンでそう小さく書いたように、近頃の私は本当に涙脆く。毎晩毎晩、飼い猫が明日ふいに死んでしまったらどうしようと想像しては、泣いてしまう。もうこれは病気みたいなもので、 その状況から脱して、他のことを考え出すまではずっと、それはもうずっと泣いて、しばらく立ち直れないのです。

 ただの猫好きなのかもしれません。言っていることは、ただの猫好きに変わりありませんし、 それを否定する気もありません。でもね、「ただいま」と言って開けた玄関の扉から、かつて感じていた洞窟のような冷たさ、暗さ、それを多く語る気はないけれど、今はもう感じないんだ。 なぜなら猫たちが、陽だまりそのものをもたらしてくれたから。大げさかもしれないけど、彼女たちには感謝してもしきれない。我が家に来てくれてありがとうね、生まれてきてくれてありがとうね、雨風強いあの日に一生懸命鳴いて、生きようとしてくれてありがとう。  

 言わずもがな、もう、なくてはならない存在なのです。

 そして何より、愛おしくて愛おしくてたまらないのです。

 

 失うことが怖くて、ただひたすらに泣き続けているのは、ただ情けない若者だ。

 自分を客観視したときにやっぱりそう思うから、青色で書いた文字に、未来の自分を託した。この若者は大切なものを増やしすぎた。その多くの大切なものたちを失いかけたとき、失うとき、 あなたはまたこうやって泣いて、飼い猫に例えて、立ち直ったとして、それが何度も何度もできるのだろうか。だんだんと歳を重ねて、若者が大人へと変化したとき、大切なものが減っていればいい。ひとつひとつへの”大切だ"と向ける気持ちを大きくして、安らかにいられればいい。

 

    ピアノの高音部をカラカラ弾くように、軽やかにそして優雅に遊ぶ飼い猫たち。何度その光景を見ても、陽だまりのそのもののようだと思う。共に映る若者は、いつか大人になれるだろうか。

 

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愛がなんだ、なんなんだよ

作品の中の恋愛って、あくまでも作品だから、やっぱり作品じみていて、人工的で、時に AI しか言えないだろ!と思うクサい台詞があるから機械的でもある。少女漫画やアダルトビデオ、恋愛ドラマ・映画、ラブソング。もちろん作品ならではの良さがある。だけど、それらの世界から抜け出して現実世界に戻ってくると、「はあ」とため息をついてしまうほど、現実とはかけ離れたものだなと痛感する。

だから、<愛がなんだ>という、“現実世界の女性たちが、恋愛というカテゴリに八つ当たりしている”かのようなタイトルの恋愛映画を知った時は、やや驚いた。これはもしかしたら、映画と現実世界の境界がない映画かもしれないと期待した。そしてその期待は当たった。

「どうしてだろう、私はいまだに、田中マモルの恋人ではない」。ワンフレーズのパンチ力。 これだけで、うわあと嘆いた女性も少なくないだろう。リアルだ。“私”というのは、岸井ゆきの演じる主人公の山田テルコ。田中マモルは成田遼。テルコはマモルに恋をしているのだが、マモルはただのセックスフレンド、会いたい時に会える女、都合の良い存在としか思っていない。つまりマモルはクズ。最初はマモルに対して「このクズ男!」としか思えないのだが、次第にテルコの重い愛情にも疲れてくる。 この映画は、二人の恋愛模様が描かれている映画ではあるが、説明できない映画だ。実際、前文の「疲れてくる。」の後に、さらなる説明(テルコの重い愛情が、どんどん変化していくと見せかけて変化しない、とか)を書こうとしたが、無理だった。

“習うより慣れよ”ということわざにかけて、“観るよりなれよ”というか。観て「なるほどね」 となるのではなく、当事者になれよ!というか。つまり女性たちはテルコになれよ!というか。だが、なれよ!以前に、もうなってんだよ!という女性の方が多い気がしている。上映後に席を立った隣の女性たちが「ふざけんなよマモル」と呟いていたのが理由だ。この映画 を観た女性は皆、現実世界でテルコと似た体験をし、マモルと同じクズ男を対象に、怒りや悲しみ、その他諸々の複雑な気持ちたちを「バーーカ!!」とぶつけている。 

 

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Climax Night

幼い頃、憧れていたもの。

マイケル・ジャクソンのライヴで失神する観客。

雨の中、革製のカバンを傘替わりにして電車沿いの道を走る女子高生。

運転席から駐車券を取る父の横顔(券を口に咥えるのもいいんだよな)。

CDや漫画を片っ端から大人買いすること。

クレジットカードに記載されている、ゴツゴツした数字。

テレビで見る、レインボーブリッジ。

一人電車に乗って、隣町の図書館へ行くこと。

その電車で乗車してきた猫を追いかけた末に見つけた、素敵な雑貨屋さん。

図書館カードにいつも同じ名前が書いてあること。

(...ほぼ「耳をすませば」の中の話)。

(幼い頃憧れていたもの、それはつまり「耳をすませば」そのものでもある)。

 

 

 

髪色を金髪に変えた。

恋人が「この駅で見送ると、寂しくなる」と言うようになった。

週に二、三回は東京へ行くようになった。

欲しいと思うものは、大抵自分のお金で手に入るようになった。

 


大人になったな、と思う。

成人を迎え、堂々と「あなたは大人です」と言われたせいもあって、ヒシヒシとそれを実感するようになった。

年齢を記入する欄には、十の位に「1」を書きそうになってから「2」を書く。

冷蔵庫の手前側に、缶チューハイを置く。

あの煙草を吸ってみたいと思って、番号を覚えておく。

無駄にガソリンを消費することを気にせずに、ドライブをする。

大人になったな、と思う。

 


先日、Yogee New Wavesというバンドのライヴに行った。

なんちゃってライヴレポートは毎度のように投稿しているのだが、今回はちょっと、自分が何を感じたかを忘れないようにしたくて、ここに書いている。

Yogee New Waves(通称ヨギー)のライヴは初めてじゃない。初めてじゃないし、むしろ彼らがどういうライヴをするのか、彼らのファンがどういう聴き方をするのかわかっていたから、特に構えることもなく、慣れた風でいた。

一緒に行こうとしていた恋人が、サボれない授業だと言って遅れて来ることになった。「ライヴが終わってから会おう」と約束して、同じ会場にいるのに互いの居場所も知らずにライヴを観ることになった。単純に、それが新鮮だったのだ。

「我々、大人になったな」と思った。

そしてライヴが始まる。

私がヨギーを知った曲である「Climax Night」という曲。

<目が見えなくとも 姿形がわかる ようなことを探し求め コーラを飲み 泣きじゃくった日々よ>

真夜中、布団に潜り込んでこの曲のMVを観た。再生ボタンを押した瞬間に耳に流れる音と、夜道をただ歩く彼らに心を掴まれて、「かっっっっけえ........」と、叫びたい気持ちを押し殺したのを覚えている。確かあの時は、日々を”仕方がないルール”に縛られていて、明日を迎えるのが面倒臭くて、「いいや、このまま夜更かしして、体調不良にでもなってしまえ」と、YouTubeの関連動画を辿っていた。そんなときに出会ってしまったのが、まさに”自由でいようよ”、”生きたいように生きようぜ”というスタンスで音楽を作っているヨギーだったから、憧れが強いのだと思う。そこからヨギーと、この「Climax Night」が私の憧れになったのだ。

 


当時、十代の真ん中を過ごしていた私が、こうして「大人になったな」と思いながら「Climax Night」を聴くと、そりゃ、感じるものもあるさ。

合言葉のように覚えていた歌詞たちを、いつか生で聴いてやる!と誓った当時の私よ。今じゃ気軽にライヴに行って、ほぼ最前列で、彼らと一緒に歌い叫んでるぞ。

大人になってしまったよ、本当に。

 


同時に、ライヴでのヨギーたちにさらなる憧れを抱いた。

いつだって、カッコよさがアップグレードしていくんだもの。

あの夜押し殺した「かっっっっけえ..........」を、毎度より感じるんだもの。

「踊りたい奴はここにおいでよ!」という彼らの目の前に、ドッと集まって歌い叫んだ若人たちも、同じように憧れを抱いているに違いない。

大人になったなと思うことに、若干戸惑っていることは確かだ。

確かだけど、まだまだ大人に、かっけえ大人になれることも確かだ。

 


終演後に歩いた帰路で見えたレインボーブリッジに、いつまでも興奮していたいと思った。

 


大人になってしまったけどね。

 

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