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思いついたときにただ色々書いています

吹奏楽

−最初に−

私は音大生でも音楽家でもない。だから、今から羅列する言葉たちに「何目線なの?」と思う人も多いだろう。しかし、”音楽を言葉で表現する“ということを夢にしている者として、本日行われた『群馬県大会 吹奏楽コンクール』での母校の演奏について、書いてみたいなと思ったまでである。

 


吹奏楽コンクールについて簡単に−

よく吹奏楽部員が「コンクール」と言っているものの正体は、運動部にもある「〜大会」と類似している。しかし、吹奏楽界のそれは、何ヶ月に1度2度と頻繁にあるものではない。8月の初旬にだけ行われ、たった12分間で結果が決まり、同時に引退も決まる。県中の20校ほどの高校が集まり、順々に演奏していく。金賞、銀賞、銅賞の3種類のいずれかの賞が与えられ、各割合は金賞5校、銀賞8校、銅賞7校。金賞5校のうち、上位4校のみが全国大会に繋がる西関東大会へ推薦されるという仕組みだ(西関東大会もほとんど同じ仕組み)。もちろんどの高校も「全国大会金賞」を目指し、夏休みの全てを練習に捧げる。練習はとても過酷だ。楽譜通りに楽器から音を出し、全員でそれを合わせただけでは銅賞。作音楽器、つまり自分自身で正しい音程の音を作っていく楽器がほとんどの吹奏楽には、多い時には40〜50人とピッタリ音程を合わせていったり、和音の仕組みを理解して音程を低くしたり高くしたりしなければいけない。それをたった1秒しか鳴らない1音にさえ求められる。他にも、リズム感、音のバランス、音量など、”技術力”が試される。それだけではない。「こんな音楽がしたい」「ここはこういう風に吹きたい」と言った、まるで文学かのような”表現力“も試される。そして、自分たちの個性(カラー)も適度な塩梅で取り入れて、12分間演奏する曲を完成させていくのだ。

 


もっともっと深く掘り下げたい「コンクール」のことを仕方なくざっくり言うと、

<全てを捧げて練習をし作り上げた技術力+表現力+自校らしい演奏=金賞or銀賞or銅賞が決まる大会>ということだ。

 


−本編−

朝が昼に変わっていく最中、我々の母校の直々の後輩たち(以下、彼ら)はステージへと歩いていた。 緊張、不安、自信、情熱。それらを内に秘めている様子がこちらにも伝わってくる。演奏が開始されるまでの数分が、最後の準備時間だ。

まず1曲目、4〜5分程度の課題曲である「吹奏楽のための『ワルツ』」が演奏された。

クラリネットが歌うメロディに、サックスが伴奏を返し、ゆっくりと3拍子のリズムが生まれていく。そして人数が増えて、平和な船出かのような盛大なワルツが鳴り響く。規定にとらわれず、時折加速したり減速したりするテンポ感に遊び心を感じ、聴きながら楽しくなる。演奏する彼らも楽器と共に体を揺らしながら音を奏でていた。一体感という意味では、核部分である打楽器の周りを柔らかく木管楽器が包み込み、さらにその周りを分厚く金管楽器がコーティングした音のボールが弾んで飛んでくるといった印象だった。繊細なタッチで音をなぞっていくのが明確に分かる上品な演奏に、愛くるしささえも抱いた。

そして、大本命の自由曲「交響曲モンタージュ』」。これは毎年そうなのだが、嫌気が指すほど自由曲の最初は恐ろしく難しい。例え自分の楽器に音がなくとも、息を止めて緊張する。 この静けさを乗りこえて、音楽はどんどん進んでいく。木管楽器がせわしなく奏でるメロディ。鼓動のようにリズムを刻んでいく低音楽器と打楽器。最高潮に向けて加速する金管楽器。何かを急かしているのか、“焦り”という言葉が適する曲調展開だ。だが彼らは正確に音を刻む。アルトサックスのソロから盛大さはよりいっそう増し、金管楽器の直進的な音が2階席を突き抜ける。全パートに決めなければならない音たちがあり、1人1人が背負う重い責任感を真っ当しているサウンド。今まで彼らが内に秘めていた思いが音に乗って会場に鳴り響いていた。クライマックスにかけてフラッシュバックされる映像には、何が映し出されているのだろうか。過酷な練習の日々?ここまできた達成感?もっと練習したかったという後悔?先生、仲間、先輩後輩、両親への感謝?金賞への熱意? それぞれに自然と溢れてきてしまう感情たちが、もっと大きな一体感を作りあげていた。

最後の音が鳴り終わって、率直に「素晴らしかった」と思った。彼らの中にはマイナスな涙をこぼす者もいたし、「もっとやれた」と嘆く者もいた。所詮OGOBである私たちは当事者ではないから、「上手だった」とか「凄かった」と簡単に言えるのだけれど、素直にそう思った。

 


一緒に部活動に励んだ後輩たちが、さらに後輩たちを引っ張って凛々しく演奏する姿に、胸を打たれない先輩はいない。そして、自分たちが彼らにできたことは何かと考える。しかし、先輩というのはそこで悔やんでも、その後は結局後輩次第なのだ。そして後輩というのは、先輩から得るものを勝手に選び、勝手に吸収する。だから、お互いに何ができて何を吸収したのかという真相は、それぞれ個々にしかわからないということだ。それが繰り返されて、伝統というものは生まれる。

先輩後輩関係も、ステージ上で演奏している間は仲間の1人に変化し、みえない絆を結ぶ。音で会話しながら、目線と息を合わせて奏でていく。そうしていくうちに、たったの12分間の中に、彼らにしかわからないドラマが生まれる。それは“もう死んでもいいや”と思わせてくれるほど気持ちが良いものだし、“この瞬間を一生忘れない”と確信するほど、価値のあるものだ。

「金賞が全てじゃない」といくら言われても、「金賞が全てなんだよ」とつい反抗してしまいそうになる。当たり前にできた部活ができなくなること、楽器を演奏しなくなること、吹奏楽から一旦離れること、全てに戸惑いを隠せない。自分でこの一夏の戦いに区切りをつけない限り、外部から何を言われても励まされても無駄なのだ。区切りをつける方法はわからない。時間が経過することかもしれないし、限界まで泣くことかもしれない。きっと、今までこの高校の吹奏楽部でコンクールを経験した人のほとんどが経験してきた道だろう。そしてそれを乗り越えた時、「吹奏楽をやってきてよかった」と心の底から思い、その瞬間全ての思い出がかけがえのないものになるだろう。

 


彼らの「ワルツ」「モンタージュ」は今もまだ、耳に残っている。

 

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