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思いついたときにただ色々書いています

白昼夢

相変わらず、給油マークの消えない車を運転する。

滅多に走らない電車の踏切に引っかかって、たった4車両編成の電車に乗る人々を呆然と見送る。愛着の湧かないこの道(走りにくい道だから)に、ポツリと建つ踏切にさえも風情を感じないでいた。雑に降る雨に嫌気が指して、ワイパーをOFFにして、シャッフルでかかる音楽に耳を傾けてみる。

「星の図鑑の代わりに 夢中で夜を超えさせて」

小袋成彬(おぶくろなりあき)が歌う『Selfish』が雨音と入り混じり、彼の音楽を初めて生で聴いた時のことをふと思い出した。

 


彼は私の目の前にいた。正確には私が、運良く最前列で彼の歌を聴くことができた。時折インタビューなどで答えているのを読んだが、彼が、自身への外見、容姿への興味がほとんどないことを再確認する何も着飾らない普段着と、少し汚れたNikeのスニーカーを履いてフラっとステージへ登場する。もちろん観客は歓声を上げるが、彼は何も言わずに歌い始める。彼の第一声は、数秒前まで火照っていた観客を一瞬にして低温化させる。ここでの低温化という表現は決して悪い意味ではない。観客と会場に適度な緊張感を持たせ、五感の全てが彼と彼の音楽に集中する。だが、彼は意図的ではなく、あくまでも彼の音楽が自然となす。そして観客と会場がその状態になっていることにも、彼が興味を持つ様子は全くないのだ。彼の無関心で無意識な佇まいが、彼の音楽を一人歩きさせ、彼の才能が滲み出る。“小袋成彬が作った音楽”だけを全身で感じられる。

‘18年4月25日に発売したファーストアルバム「分離派の夏」に収録されている『Summer Riminds Me』を歌う。「世界は僕を待っていないと知る いつもの夜道を日のあるうちに帰ったから」「それは今まで1番泣いた日 鏡の向こうにいたのは確かに僕なのだ 僕だけなのだ」…こうして歌詞を並べても、吸い込まれていきそうな言葉たち。スローテンポだがシンプルなビートの上に乗る言葉は多い。その言葉たちを、少し身体を揺らし、マイクを持たない手を動かして、時折目を瞑って歌う。歌っていない最中は下に俯いて、表情はない。歌うこと以外にパワーを使わないような無駄のなさだ。この様子のことをインタビューで、「ライブでは歓声も拍手も聴こえず、自分の人生をひたすら振り返る時間を与えられたと解釈して、曲に没頭している」と彼は答えた。

この日、会場には入場規制がかかっていた。彼は今音楽界の注目であるからだ。宇多田ヒカルに「この人の声を世に送り出す手助けをしなきゃいけない」と言わしめた、突如現れたアーティスト“小袋成彬”。正直、宇多田ヒカルというビッグネームが肩書きにあれば、「どんな音楽をするアーティストなんだ?」と、音楽を聴く誰もが興味関心を向けるだろう。ライブにもきっと、彼のファンも多くいただろうけれど、その興味関心を持って彼の音楽を聴きに来た人も多かったに違いない。それに応じるように、『Lonely One feat.宇多田ヒカル』を歌う。当然、宇多田ヒカルの歌パートは音源だが、彼女の歌声も唯一無二だと実感する。歌声が流れただけで、凄まじい速度で全身に血が流れる。しかし、宇多田ヒカルを引き継ぐ彼の声もまた、全く負けていないのだ。アーティストが共作する音楽は“いい化学反応を起こす”などと表現されがちだが、この2人の場合は“昼と夜に浮かぶ月”と表現したい。別物にも同物にも感じ、醸し出す空気感は何にも真似できない。それぞれに、温度感、見え方、在り方などの圧倒的な特徴を持つが、同じ”月“なのだ。互いの持つオリジナリティを存分に放出しているのにも関わらず、一体化さえ感じさせるのは彼らにしかできないだろう。これは性別も個性もを超えた、“アーティスト同士”の音楽そのものだ。

“グアムでの白昼夢”と和訳される『Daydeaming in Guam』へとセットリストは展開していく。白昼夢とは”真昼に夢を見ているような、非現実的な空想“という意味を持つ。彼の音楽は、純文学に近い芸術作品に類似していてどれも儚い。そして文学的だからこそ読解しにくい。が、どこかずっと脳裏に残る言葉たちが多い。「書かざるを得ないと思わないと曲を作らない」という彼の発言からして、どれも実体験に近い歌詞だということが推測できる。なおかつこの『Daydreaming in Guam』はその中でも、特にドラマチックな作品になっている。

【喘息を堪えて、縁側の座椅子で朝まで話そう。線香漂うリビング、僕らを睨む君の親父の遺影、陽炎に僕らは溶けた。グアムじゃ毎日熱にうなされて、会話もせずに。あれはごめん。白い肌が勲章なのさ、二人の。今度は君が倒れた隣の街の噂でさ、一番に駆けつけたのが自慢でさ。それから心だけは半年以上も動いた。見慣れた寝顔に髭が。白い肌が勲章なのさ、二人の。二人だけの。夏に燃えた君、なぜ親父の誕生日に、晴れやかな黒?賑やかな黒?浮かぶ母の苦労よりも、グアムの水着の跡。だから僕は白昼夢の中に意味なんて求めないからさ。また君に会えるまで、薪を焚べ続けなきゃ… 】

歌詞だけを読んでも、1つの物語かと錯覚してしまう。それを、彼が音楽にして歌う。1つ1つなぞるようにじっくりと。彼の音楽を聴いて、共感もしなければエールをもらえるわけでもない。ただ魅了される。目の前にいるはずなのに、ライトに照らされた影の色は薄く、しかし歌声は会場中を力強く浸透していく。そんな彼自身にどんどん惹かれていく。

様々なアーティストのライブに行った。迫力あるパフォーマンスに鳥肌が立ったり、やっと生で存在を確認し、歌声を聴けた喜びで涙したりした。その点を比べるわけではないが、彼のライブでは”彼のとある休日“を覗いているような、良い意味で素朴でシンプルだった。彼のライブでは単純な感情を持つよりか、彼の音楽にうっとりしながらも漂う緊張感と、無駄のない音たちに五感ごと持っていかれる感覚に陥った。パワーを得るというより、彼に”何か“を吸い込まる感覚。その”何か“の得体は知れなくて、ライブの後半は足が地に着いていない浮遊感があった。そして45分間のステージのラスト5分間を飾った『愛の漸進』。この曲はアルバム「分離派の夏」のラストでもある。漸進とは”急がないで段階を追って少しずつ進んでいくこと“。こうして度々歌詞やタイトルの言葉の意味を調べるのも彼の音楽の特徴かもしれない(私の語彙力の問題でもある)。”愛“というワードからラブソングを連想したが、またこれも確信は得られない。”小袋成彬のラブソング”だからだ。きっと単純にはいかないだろうという予想は的中していた。歌詞の最後に「だから月が綺麗」というフレーズがある。夏目漱石が英語教師だった頃、ある生徒が「I love you」を「我、君を愛す」と訳したところ、「日本人はそんなことは言わない。『月が綺麗ですね』とでも訳しておきなさい」と言ったことから、”月が綺麗=あなたを愛しています“の表現が生まれたとされている。歌中に「詩人の真似でもいい」と出てくることから、この曲はきっと夏目漱石の言葉を引用して「だから君を愛している」と、”君“に愛を提唱したラブソングであると、私は思う。「体が冷えないようにそばにいよう」ではなく「体が冷えるまでそばにいたい」という歌詞も、”小袋成彬のラブソング“にふさわしい。

彼はライブ中、一言も話さなかった。ラスト曲を歌うと、すぐにステージを降りて行った。そして思い出したかのようにステージへと戻り一礼し、またすぐに降りて行った。その一瞬だけ、彼の素性を垣間見れた気がして、観客も彼のあたふたした様子に少し笑い、ライブは終了した。これもまたインタビューで知ったことだが、彼がMCなしで歌う理由を「喋ることがないから」「自分の歌を時間内きっちり歌うことが僕の使命」と言い、「ライブの最後には心からのありがとうを思っている」とも言った。この姿勢もとても彼らしいし、魅力的である。

様々なアーティストが50〜90年代の音楽をリスペクトし、さらなる新しさも求め続けている現代の音楽シーンで、小袋成彬というアーティストが唯一無二の存在であることは間違いないだろう。”プロデュース宇多田ヒカル“の後ろ盾が彼に100%の肯定的効果をもたらしたわけではないかもしれない。だが彼はきっとそんなことは些細なことの1つで、ただ自分の音楽を作りたい、という独自性を突っ走る様は、私たちファンも是非追いかけたいと思うものだ。かつて宇多田ヒカルを筆頭に、久保田利伸安室奈美恵が積み上げてきた日本のR&Bは、小袋成彬がもたらす大きな可能性を存分に得ただろう。

 


 信号が赤から青に変わるのと同じタイミングで、シャッフルによって『Selfish/小袋成彬』も違う曲へと変わっていた。左折ウインカーと共にワイパーをONにして、一気に現実へと戻る。白昼夢を見るように彼のことを思い出した一瞬だった。

 

 

 

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