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思いついたときにただ色々書いています

死を恨む

今年の1月1日に彼は亡くなった。

訃報を受けた1月4日から、約1週間、誰とも連絡を取らなかった。連絡をしていられなかった。

なぜ人間は死ななければいけないのかと、馬鹿げた問いの答えを探していた。答えが見つからないことが悔しくて、死というものを激しく恨んだ。

 


彼を初めて知ったのは約5年前、2014年。

動画投稿者と一視聴者という関係。向こうは私の存在さえ知らない、ただの片想いの関係。

だが、学校から帰宅して観る動画の中の彼に、やけに親近感を持っていた。親戚のお兄ちゃんが、今日は何をして遊んでるのかな〜と、淡い憧れを抱きながら覗くような。近い距離にいるような。

だから、彼の死は辛かった。

大好きな親戚のお兄ちゃんが、突然事故で死んだと聞かされた感覚に、絶望した。これが身近な人の死なのだと。声を荒げて泣いたのを覚えている。

伝う涙がうざったくて、それを流そうとまた泣いた。

死の存在がこれほど憎いことも知った。

 


部屋の換気をしようと開けた窓から、冷たい夜風が入り込む。600Wで温風を流すヒーターに身を寄せて、残ったグループメンバーの、1時間に及ぶ動画を再生した。1時間の動画に、彼のことが詰まっていた。

https://youtu.be/Az8nFR9xJ5w

「〜だった」「〜した」と、彼とのことを過去形で話すメンバー。そりゃそうだ、彼はもう死んでしまったのだから。全て過去形で、正しい。

ただそれは、彼の死を余計に実感させた。彼はこの世にいなくて、姿形は灰へと変わり、目に見えない。

動画の中でのメンバーの「こんなことがあったんだよって彼に話したいけど、ああそっか、もうこの世にいないんだ、って何度も思う」という語りが印象深い。今、電話をすれば話せる。今、会おうよと言えば会える。今、したいと思えばできる。相手や自分が死んでしまったらもう何もできない。当然のことだし、分かってはいたけれど、「また今度でいいや」は、ナンセンスな選択だ。残されたメンバーは、彼の死からそれを強く受け止めていた。その姿は、少しでもつついてしまえば弱く、消えてしまいそうだったが、それでも前を向こうと強かった。

 


この動画に受けるものが必ずある。

同業者である動画投稿者達だけでない。大切な存在を失った人、友達と喧嘩してしまった人、両親や兄弟をよく思えない人、未だに想いを伝えられていない人、したいことやしなくてはいけないことから逃げている人。それは性別年齢関係なく、該当する全ての人。

悲しさが大きく浮遊して、温かいものに変わった彼らが、思うことを真っ直ぐに、丁寧に語る姿に、受けるものが必ず、必ずある。

 


死を意識しながら生きたい。

どこかで聞いたせいで薄い言葉に聞こえがちだが、明日死んでもいいと思いながら、生きたい。

彼の、親戚のお兄ちゃんの死から、そう思うようになった。そして、死の存在は憎いだけではないかもしれない、そう思うようにもなった。

 

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